少しお堅いタイプの人って、真面目で信頼できて素敵だなぁと思います。
しかし、人と仲良くしたい場面では、なかなか人との距離を縮めるのが苦手な人がいるかもしれません。
どうしたら、人とつながった感を気軽に味わうことが出来るでしょうか?
相手の心って分かりにくいものだし、分かったつもりでいても、間違えていることってあります。多くの人は思いやりのある人や、こちらの話をじっと聞いてれる人が基本的に好きです。たとえ、正しい事であっても厳しく言われると、凹んだり、怖くなったりします。
そのため、ちょっと自分のことを堅物で、なおかつ厳しめの人間だなぁと思う人は厳しさをちょっと抑えてみるといいかもしれません。
特に、人間関係を活発にしたり、円滑にしたりする場面では、厳しさを少し押さえて接してみましょう。厳しい性格自体は悪いものではありません。物事を進める時に、公平にきちんとしている人は信頼されます。
ただ、人と打ち解けやすくなることを求めている場合は、厳しさを発動させるより、優しさを打ち出すような接し方がよいです。深い人間関係が築けていないうちに、厳しすぎる対応をすると、とっつきにくくなります。
一旦このような雰囲気を相手に感じ取られてしまうと、相手が親しみや積極的なコミュニケーションを求めている場合、近づきにくいのです。
また、厳しさが前面に出ていなくても、パッと見たときの印象から堅さが出ている人は、柔らかい表情を意識してみましょう。
自分が思っている以上にものすごい笑顔をしても、案外相手からは、ごく普通の顔にしか見えないものです。まれに、素の顔がものすごい笑顔の人もいますが、このような人は得ですね。
自分なりの、大の笑顔、中の笑顔、小の笑顔を持っておいて、普段から小の笑顔を絶やさないようにしてみると印象が良くなります。大の笑顔は、会話の中で何か盛り上がった時に出す、とびきりの笑顔です。
もともと、お堅い感じの人は、そうでない人に比べて、いきなり変化させるのは難しいかもしれませんが、継続する意識をもつことで、やがて習慣にできます。
習慣となったことは続けやすく、やがて本物になります。そうしていると、人との間に壁が出来にくくなり、気軽にいろんな人と気持ちが通じ合う瞬間が多発してきます。
心がつながる感触が得られる会話は、どんな相手でも楽しいものです。心がつながった感は、男女関係を急速に発展させます。
また、ビジネスがスムーズに進むきっかけになったり、人がものを買いたくなるスイッチになることがあります。
心がつながるとは、貴方の心が相手に響くこと。何かを響かせたいなら、やっぱり人間同士ですから、明るいイメージと少しの優しさです。
貴方の周囲が、貴方のとのつながりで楽しくなれるといいですね。
大人しい人は勝手に意見がないと判断されやすい。心でどんな思いがあっても表現を怠ると、スルーされるのは仕方がないことだ。
大人になると「黙ってちゃわからないでしょ?」なんて子供を相手にするように誰も聞いてはくれない。
誰も俺をわかってくれないといって卑屈になるのは心が成熟していない。甘えが抜けないまま大人になると生きづらくなってしまう。
仕事でも家庭でも望む幸せから遠のく。それに、もしかしたら本当に意見がないのかもしれない。
どうしたいのかを説明もできないが俺を心地よくさせろという支配的なものが爆発するとそれこそ周囲に迷惑がおよぶ。DVやパワハラは最たるものだ。
幸せになるためにした結婚が不幸の温床になっている人がいる。採用されて嬉しかったはずの仕事が辛い修業の日々になってしまう。
自分で考える力と、それを表現する力をセットで育むから影響力を発揮していける。なんであれ“自分をもっている人”が尊敬され好かれるのはそういうことだ。
思慮深いのに、賢いのに、大人しいばかりに損をしているならぜひ表現力を磨いていくべきと思う。
表現力を身につけるだけで人生を切り開く力をもてるなら放置したままでいいのか。貴方の本領はそんなものなのだろうか。満足できているのだろうか。
実際より自分の実力を低く見られていると感じたことはないか。誤解されて相手の小さい脳みその中で歪んで処理されたら悔しい。
私は悔しかった。諦めてたまるかと思った。もちろん謙虚に自分を見つめることも必要だけど、やっぱり黙っていたら損するし、それでは我慢ならなかった。
人には人の自由があるけれど今より良くなりたい。仕事もプライベートも充実させ幸せになりたいと切実に望むなら、表現をもつことには計り知れない恩恵がある。
表現をもてば、大人しいことも魅力のひとつにできる。表現力をもつことは創造性を発揮するための入り口といえる。
貴方の特性を幸せを阻害するのも、自分の強みにして花開かせるのも選べるとしたらどうだろう。
人間関係を全く無視した世界で幸せになることはほとんど不可能なのです。承認されることなしに得られる幸せは食って寝ることくらいしかない。
表現ひとつ学ぶだけで、貴方の考えや経験が誰かの役に立ったり、誰かの人生を変える可能性が生まれたりする。
表現力を身につける努力は貴方のためだけでなく、世のためにも意義のあることだろう。
弱虫の臆病者のことを英語でチキンという。
恐怖で鳥肌が立つさまや鳥の臆病な性質などからも意気地なしを表するチキンハート。
だけど見た目や雰囲気は置いといて実際、臆病でない人なんてほとんどいない。
わざわざイカツイ演出している人は臆病の裏返しみたいなもの。
そして知識による武装も同じ。純粋な知識欲は尊いが悪魔に命を売り渡してまで知を求めるなら破滅行き。
もしも自分のことを心底意気地なしだと思うなら俺は得していると喜んだらいい。
なぜなら人は武装と勇気を敏感に嗅ぎ分けるし偽善と思いやりの違いを見抜くからだ。
好きな人は?というアンケートによく「自然体の人」が上位にくるのはこのような理由からだろう。
映画のストーリーの王道に弱虫が勇者になるという黄金の筋書きがある。貴方にもきっとお気に入りのストーリーがあるはず。
たとえ打ちのめされても焦らず、腐らず、逃げ出さずそんなボロボロの弱虫が立ち上がるから喝采が送られる。だからチキンハートをごまかすための武装や偽善はいらない。
ヒーローって決してなるものではなく、ヒーロー的に生きることができるだけ。そしてそれが伝わったときはじめてヒーローと呼ばれる。
だから、なる・ならないではなく「そうありたいと望む・望まない」それだけ。
勇者の在り方とは善に対する尊敬の念と知に対する純粋な喜びそんな生活が勇者を作るのだと思う。
で、それがある日表層に表れるだけのこと。
それこそが自然体のヒーローになれる人。だから付け焼き刃のような身の丈に合わない無理はいらない。
カッコつけたくなるときがあってもいい。だけど自分らしくないことで評価されて何になる。桜の木にバラの花を咲かせる努力は愚の骨頂。
例えばオタクでも何の問題もない。貴方の心からの興味関心と自然に沸き起こる静かな思いやりがあればいい。
適切な表現力さえあれば伝わる人には必ず伝わるから。
そんな波長の合う人がわかるようになるには武装と偽善が邪魔になる。だから臆病はヒーローの条件のひとつ。
心地よい人間関係が築けないなら周囲に理解されないと悩むなら伝わる、響く、話し方と表現からです。
原石はすでに持っている。あとはヒーローの原石をピカピカにするだけ。生まれつきのヒーローなんていないしいたとして、そんなストーリー面白くも何ともない。
あらためて、内向性の光と闇について書きたいと思います。
よく内向性が良い形で表出されたり、昇華されたりする例として、アインシュタインや、ニーチェなどの天才性を爆発させた変わり者が挙げられます。
一方で、才能をもちながら、強い孤独感、疎外感に苦しみ自殺する人がいます。作家や画家などの芸術家に多そうなイメージですね。
そして、もっと負のイメージですと、無差別殺傷事件に代表される「誰でもよかった」という許し難い事件を引き起こす殺人犯がいます。
このような人々の背景に、強い内向性、孤独、疎外感、見捨てられた感、自己喪失感、自己無価値感が指摘されることがよくあります。光と闇はとても両極端に見えます。
ここで、ご紹介したいのが闇に堕ちそうになりながら光に転じた人です。こういう人はもっとも参考になります。
それはドイツの文豪ヘルマン・ヘッセです。ヘッセは学生の頃から孤独感を募らせていました。学校を辞めたり、職場をすぐに辞めたりしていました。
「詩人にしかなりたくない」と言って逃げ出す問題児でした。ひどいノイローゼで自殺未遂を繰り返し、病院に通っていました。しかしヘッセは自殺未遂は繰り返したものの、死にませんでした。
絶望感をもったまま、光の方へ行ったのです。そして家族をすてて隣国に亡命しました。その苦しみや、絶望との付き合い方が書物から伺えます。
20代でベストセラー作家となろうが、精神状態の悪いヘッセは苦しみ抜き、東洋思想にのめり込みました。なのでヘッセの作品は、日本人の感性によく合います。
生きる喜びが文章から伝わりつつまた、虚しさも伝わってきます。こういう人はきっと、何か良いことあろうと決して「俺絶好調!ハッピーーウキウキ!!」とは、ならないのです。
そうではなくて、私には想像もできないような、悟りの境地に達しているようです。静かで、テンション高くもなく、低くもなく穏やかな境地です。
そこまで到達したヘッセはもしかしたら、今一番読まれるべき作家なのかもしれません。孤独や絶望と一体になりやすい人は養育環境だけではなく、生得的なものにも寄るのではないかと精神疾患の書物を読むと感じられます。
まぁ、この辺りのことは解明されていないことも多いため、なんともいえませんが。ただ、ヘッセがとても貴重な生き方を示してくれたことは事実です。
本人が苦しみ抜きながらも、光を見ようとしたことは現代に生きる内向性の強い人を励ましています。それは間違いのない事実なのです。
ヘッセの作品は、内向性の強い人には身にしみる言葉が多い。たしかに、世界にはヘッセ以外にも、優れた作家は沢山います。
でも私にとって、文学の底力をもっとも感じさせてくれるのがヘルマン・ヘッセなのです。よかったら読んでみてください。
悩みが深い時に読むと信じられないくらいの力が湧いてきます。内向性は何も悪くない。ただ、殺人や自殺に向かったらいけない。
偉業なんて別に成し遂げなくていい。ただ、強く静かに生き抜いていくことは放棄しないでいよう。

例えば、文章の校正で誤字脱字を指摘するような場合と違い、たいていのことは正しいかどうかはわからないことが多いものです。
なのに、「あなたは間違っている」と簡単に表現してしまう人は揉めやすいです。 それは、リアルな関係でも、ネット上でも同じです。
どんなものでも「賛成派」と「反対派」、そして「どちらとも言えない・わからない・興味がない派」がいます。政策でも、会社の方針でも、家族会議でも話し合うのはそのためです。
「1足す1は2でいいのか」ということを議論することは普通はしません。もう答えが出ているからです。
そうでないものは基本的に自由に表現していいので、議論するのです。最終的に答えが出ないので、じゃんけんしたり、多数派を採択したり、トップに一任したりします。
経営者が孤独なのは、答えのないことを「えいや」って決めなければならなく、そこに大きな責任がかかるからです。
誰にも微妙な感覚の違いがあり、それがセンスや美学になります。それ自体は悪くありませんが、表現が未熟だと反感を買いやすいです。
私の善い悪いの感覚と、相手の善い悪いの感覚は違います。なのに、そこをわきまえずに私利私欲で押し付けようとしたり、独善的になったりすると燃え上がることがあります。
ですから賢い話し合いが必要になのです。この場合の賢いとは、相手の存在を尊重することと、全体を見て考える広い視野のことです。
いろいろ勉強するのは相手をやりこめたり、武装するためではなく、広い視点と、大きな器を手に入れるために勉強するのです。
それが年齢相応にできている人は、そんなに揉め事に翻弄される率は高くありません。「私は善い(悪い)と思う」を「私は正しい」や「あなたは間違っている」と表現しそうになったら自分で軌道修正してみましょう。
仕事がスムーズに進みますし、周囲からの信頼感が増します。