社会に適応できず、挫折を繰り返し自殺願望やうつ状態にとらわれたヘッセ。この偉大な詩人を勝手ながら自分の分身のように感じてきた。
恐ろしい静けさを見つめたまま朝を迎えてしまう毎日。肩に背中に重く張り付いてくる死にたくなる気配に意義深さと甘美なものすら感じはじめた。暗い部屋で動けない日中。落ちぶれていく生活。職業を失い、パートナーを失い、正常な生活がどんどん難しくなっていった。
絶望は、人間の生活を理解し、それを正当化しようとするあらゆる真剣な試みの結果生ずるものです。絶望は、人生を、徳をもって、正義をもって、理性をもって耐え抜き、そのさまざまな要求を満たそうとする真剣な試みの結果生ずるものです。
この絶望を知らずに生きているのが子供たちであり、この絶望を乗り越えたところで生きているのが目覚めた人たちです。
ヘッセは「地獄は克服できる」という。詩人にしかなりたくないと周囲と衝突。名門校を中退しどんな学校も、職業も長続きしなかった。精神病院で自殺を図ったこともあった。でもヘッセは苦しみを乗り越えて世に認められる詩人になった。
第一次大戦中、戦争讃美の流れに従わなかった彼は非難され友人からも見放された。そして過労と家族の死、病。相次ぐ不幸に追いうちをかけられ精神障害にかかった。
のちにヘッセは自分の苦しみの責任を、自分の外部にではなく自分の内部に求めるようになる。
地獄を目がけて突進しなさい。地獄は克服できるのです。
戦後ヘッセは祖国ドイツを捨て家族と別れスイスへ。作品は一変し内面への道をひたすら求めた。
ふたたび明るいことろへ出るためには、苦しみの真っただ中を絶望の真っただ中を通り抜けて行かなければなりません。
苦しみから決して逃げなかったヘッセは苦しみをありのまま受け入れて味わいつくすことで乗り越えた。彼は生涯特定の宗教や教会とは無縁だったがつねに宗派を超越した滅びることのない宗教を信じていたそうだ。虚無感におそわれるといつも読み返す一文がある。
いのちというものは、無意味な、厳しい、味気ないものでそれにもかかわらず、すばらしいものです。いのちは人間を笑いものにすることはありません(なぜならそこには精神がないからです)が人間をミミズ以上に気にかけるということもありません。
よりにもよって人間は、自然のひとつの気まぐれの所産でありひとつの恐ろしいたわむれの産物だという考えは人間があまりにも自らを重大視しるぎるゆえに自らでっちあげた思いちがいです。
人間は決してどんな小鳥や蟻よりも苦しい生活をしていないことむしろ彼らよりも安楽に、快適に暮らしていることを私たちはまず知らなくてはなりません。
私たちは生が残酷なもので、死が避けられないものであることを悲嘆を通してではなく、この絶望的な事実を味わいつくしながらまず私たちの心に受け入れなくてはなりません。自然の残忍さや無意味さをすべて私たちの心に受け入れたときにはじめて、私たちはこの自然の生の無意味さと対決してそれを力づくで意義のあるものにすることに着手できるのです。
これこそ人間にできることのうちで最も価値のあることであり人間にできる唯一のことです。そのほかのことは家畜のほうがずっとうまくやっています。
地獄は克服できる/ヘルマン・ヘッセ
編 フォルカー・ミヒェルス
訳 岡田朝雄