今日は内気なタイプの方に向けて書いてみたいと思います。過去の喪失感にしばられたり有りもしない未来をあれこれ心配したりしない今がただただ楽しい。でも基本的に気が小さな私は2~3年前はこんなんじゃなかった。
休息も取らずに突っ走って働きずくめ。それが充実感だと思っていたけれど本当の自分は何かが違うと感じていたような気がします。そんな心の叫びがあって今の毎日があるのだと思います。
夢や望みというより抱いた信念は形になるのですね。瞬時に変わるわけではないけれど気か付くと変わっている。
変わってないとしたら変わりたくないと心が何かにしがみついているのかもしれません。来年はどんな一年にしたいですか?年末が近づくと多くの人がいろんなことを考えると思います。
ぜひその願望が信念に変わるまで本気かどうか見つめてみましょう。内気な性格をどうにかしたいとか、お仕事のこと、健康のこと、お金のこと、人間関係のこといろいろあると思います。
誰かに提示されたような幸せではなく自分が自分のためだけに何の制約もなく願いが叶うならどんな心の状態を望みますか?自分の奥底から湧き上がる願いはきっと形になります。
自分を仮の姿にとどめておくのもありえないほどのワクワクに包まれるのも自分次第だとしたら何を求めますか。
私はずっと自分の人生がまだまだ始まっていないような感覚を長い間もってきました。これはきっと深い眠りの中にいる状態でそれでもちゃんと人生の一部です。
目を覚まし、自分の足で歩きだす感覚をもつと世界の色合いが変化しはじめます。全てが自分のために用意されたストーリーだったと気づかされます。あの喪失感も、あの苦しみも打ち消すことも必要ないし乗り越える必要もない。
私はただ偽りない心からの言葉で誰かと思いを分かち合えるそんなことを望んでいたんだ。全部全部これからの深い喜びをより強く体験するための贈り物だとわかるとありがとうという言葉が常に浮かんでくるようになります。
今苦しみのただなかにいる人がたくさんいるかもしれません。私もそうでした。ドイツの文豪ヘルマン・ヘッセの一言に出合うまでは。「地獄は克服できる苦しみに突進するのだ」この言葉が時代を超えて私を救ってくれたのです。言葉には非常に強い力がある。
内気でうまく話せないことで人生が停滞していると感じているなら、できることがたくさんあります。内気であることは素晴らしいと心から思えるようになれます。私と同じ内気さんへ届きますように。
日常生活に埋没していると当たり前と認識している範囲でしか世界を見ていないしこうだと思っている物事しか起こらないように見えている。同じ生活を送り同じような人に囲まれて同じような行動を取っているだけではなかなか変化はしません。
固定観念の向こうに抜け出すには、意図的に非日常を体験することです。それは別段、大したことでなくてもいい。数時間だけでもたった1人で大自然の中に身を置いてみるとか。
その間だけでもスマホを置いて家族のことも忘れて。もっといえば、その間だけ自分が何者かも一旦脇に置いてみる。自然とはただの木や水や土だと見えるならそれは解釈に過ぎない。これも一旦脇に置いてみよう。
そしたら何が起こるか。自分の認識が広がれば見えなかったものが見えるようになります。これは決してオカルトチックな意味ではなくて心の目で見れば人の本質に着目できるようになります。
結果、落ち着いていられる時間がどんどん長くなっていきます。周りがどんなに目まぐるしく動いていたとしても何にも影響されない。自分の核に支えられて安心していられる。
そんな境地になってくると事実はもっと違うかもしれないと言葉にならない捉え方が自然に湧き上がって気持ちが安定します。
この世界は何でもありで気持ちのよい世界はいつも自分の隣にあったかもしれなかったと理解させられる。
人や物事を見る目が変わる。変化を自分で認識し始めたら一気に世界の方からあなたに真実を見せてくれます。
理解を超えた想像を超えたこの世界に自分の理想を超えた人が存在する可能性。自分の枠を大きく超えた世界がある壮大な世界に心を開くことができるなら今まで見えなかったものが見えるようになります。
それは意外な人かもしれないし考えもしないようなチャンスかもしれない。自分自身の無限の可能性他人の無限の可能性かもしれない。そこには嫉妬などない。自分の持ち味も他人の持ち味も全てが私を楽しませてくれる体験になる。
昨日のあの人と今日のあの人は違うと分かると毎日が新鮮で新たな発見がある。人に飽きることがなくなります。人の美点を教えてあげたい衝動に駆られます。
そうなってくると周りにたくさんの人が集まってきます。現実的なチャンスが増えます確実に。
恋愛でも仕事でも健康でも無限の可能性はいつも他者が運んで来てくれる。自然のもつエネルギーが他者を通して顕現する。だから限界を外すってスリル満点で楽しい。宇宙人に遭遇しちゃうかもです。
「愛することは赦すこと」とは、キリスト教でよくいわれる教えです。これは幸せな人生を送るためのノウハウを一言で表した究極の魔法の言葉です。
私がこの言葉に出会ったのは16歳の頃ですから20年以上前ですが今もなお、この言葉を意識しながら生きています。そして今なお実践することが難しいと日々感じています。
しかし何とか理解しよう、実践しようと意識し続けることで確実に人生が上向きになります。心理学、量子力学、精神世界やあらゆる成功法則がいっている「すべてに感謝しよう」「自分が変われば世界が変わる」これらの言葉に通じています。
どういうことかというと愛するというのは赦すことなのですからそこには何の条件もありません。あなたから見てどんな悪でも関係ないのです。
は?悪い奴にひどいことをされても赦せというのか?無理でしょ?
はい。だから本当に難しい。それでも一生かけて取り組むくらいの気持ちで意識し続けると自分でも驚くような幸せが舞い込み続ける奇跡のステージに到達できる。
愛すること、赦すことは相手に対してだけではなくむしろ自分に対してやってください。自分の好きなところを愛することは容易にできると思いますが自分の嫌なところ誰にも見せられないような醜くてイケてないあなたがいませんか?
私にもいっぱいあります。自分が一番でないと面白くないし、優れた人を見ると嫉妬しますし、やろうと思っていることをだらだらと先延ばしにしてしまう弱い自分も嫌だなあと思います。
でもそのような自分も赦して愛してみようとしてみてください。甘やかすというような次元とは違ってただただもう受容するのです。
過ちを正当化することではなくて、そのような段階にいる発展途上のひとりの人間として自分を愛するのです。至らない部分をもちながらそれでも上を目指そうとする自分をまるごと受け入れるのです。
何かが優れているから自信をもつのではなく何もないけど自分が自分であることが嬉しくなるまで愛してあげましょう。
乳幼児の我が子がウンチを垂れ流してもよだれを垂らしても、自分のことすら何もできなくても可愛いのと同じくらいに愛しましょう。そんな習慣がついてくると周囲の人を同じ目線で見られるようになります。
なんかちょっと意地悪な感じの人がいても「ま、自分も気分が悪くて人に優しくできないこともあるし」そんなもんだよね〜って思えます。
意地悪な人のことも赦して愛せるようになります。「何で優しくできないんだろう私!」といって自分を責めてはいけません。できないことがあって当然だし、人はそもそも不完全で赦してもらわないと生きていけない存在です。
そのように自分も相手も包み込んでください。そんな境地で生きられる人は少ないですからそんなあなたには人が集まってきます。
素敵な誰かに熱烈に愛されるようになったり、自分の夢につながるチャンスを与えられたり、人から感謝されたり楽しくて前向きな仲間と大笑いしてほら、気がつくとこんな感じで幸せがいっぱい訪れるのです。
そして上手くいったことを周りに分かち合ってください。こうしてさらにさらに幸せのスパイラルがどんどん上昇していきます。天井はありませんからどこまでも登っちゃいましょう。
特別な能力を身につけて人に貢献できるのはもちろん素晴らしいです。でも特別なものを何ももたなくてもあなたが自分と周りの人にできることがこの「愛すること」「赦すこと」です。
この一文に出会ってくれたあなたの幸せを願っています。
芸術というのは愛で、精神的な高揚のひとつの表れ方です。今自分が現実に置かれているステージや舞台装置で共演者と観客と共に修行者、奉仕者という名の表現者が存在します。
上から照明に照らされるようにそれぞれの者に何かが太陽に包まれるように照らされています。それが最初は弱い光にしか感じられなくても光に対して素直でいればわかってきます。
光は完全に平等にあたっている。お互いに奪い合うこともなく羨ましがることもなくちゃんとステージは全員分すでに用意があるのだとわかります。
自分ひとりが気付くだけでこの世にしかありえないすばらしいエンターテイメントをいくつも堪能することができます。
他の人のステージも自分のステージも最高なのだとわかり始めます。わかっているとたまにステージ上が真っ暗に暗転することがあっても、それが舞台転換なのか次の場面のための演出のひとつなのかとワクワクすることもできます。
パニックにならずに楽しみで満たされるでしょう。愛やら平和やら幸せやらは小道具みたいなものですでにステージの袖に置かれています。暗闇でも紛失しないように蓄光テープが貼られています。
よく見れば必ずあります。必ず見つけられます。壊れやすい小道具は予備もあるし修理の用意もあります。
自分が不器用なら助けてくれる仲間もいます。ステージ同様、小道具も無限にあるもの。無限にあるものをわざわざ奪い合う必要はないのです。
気付いてほしいと待っているかもしれません。そしてそれらを総合して何が創れるのか。自由な創造は楽しいものです。
力づくで何かを推し進めたり必死になってアピールしたり作戦を練り込んだりそれも悪くはないけれどそれだけが表現ではないのです。気付くか気付かないか。それだけで一見、見えない舞台装置の裏側にある仕掛けがわかります。
ミスすることもあるだろうからあらかじめ二重三重に安全策をしておこうかと準備できます。シナリオは最後まで見なければわからないものだということも想像できます。稽古の段階とそれを経て迎える本番のステージがあります。
今が稽古なのか本番なのかわかっていないと当然良いものは作れないでしょう。稽古も本番も休息も大事。心静かに自覚する時間をもつと見えないものが視えるようになります。
見えないところにも心を配れる。非常灯が消えているのも演出上のこと。分かってやっていることは怖くないのです。
2015年の自殺者は前年より1456人少ない2万3971人(速報値)で6年連続で減少したとのこと。このことがテレビでも報道されていました。
日本の報道というのは何故か淡々とニュースを伝えるのではなくそこに報道する側の意図が表現されるような伝え方をします。つまり良い・悪いが色付けされているのです。
例えばスポーツで日本チームが勝てば満面の笑みで素晴らしいニュースとして報道され事故でたくさんの人が亡くなれば事故原因を責め立てる怒り、悲しみのニュースになります。
バスの事故で十数人が亡くなったニュースは実に神妙な面持ちで報じられているのにこの自殺者の減少は良いニュース的な色合いで伝えられている声のトーンでした。
これがもし2万3971人が1年間に死んでしまうような病気が蔓延したら大騒ぎするでしょう。
大地震でこのくらいの犠牲者がでたら毎日報道するでしょう。もし企業の怠慢でこれほど多くの人が死んだらものすごく憤慨するでしょう。
これが自殺だとどうしてこのような扱いになるのか。本人が自分で死んだだけだからなのでしょうか。
ひとりの家族を自殺で失った人はたとえ災害で多くの人が亡くなったよりも、このたったひとりを自死で失ってしまったことにショックを受けているでしょう。
ひとりひとりの人間にとっては「何で死んだ」より「誰が死んだ」ということが問題です。殺人だと騒ぐのに一人が自殺しても年間自殺者として1年分まとめて報道されしかもその数が前年より減っていることを喜ばしく伝える神経が異常だと思います。
罪のない人が殺人事件に巻き込まれると被害者が抱いていた夢や目標が伝えられます。しかし、自殺した一人の人間だっていろんな思いをもって生きていたのです。そして生きていくことが出来なくなってしまったのです。
死にたかったんじゃない。生きていけなかったのです。
震災でせっかく生き延びたのに希望がもてず自殺した方は本人だけの問題といえるでしょうか。
いじめ、病気、借金、人間関係自殺の原因は様々です。しかし社会が100%関与していないといえる原因などあるのでしょうか。
社会にも多くの原因があるのだとしたらその社会を構成しているひとりであるこの私も誰かを自殺に追い込んだ冷たい人間のひとりなのかもしれません。
こういうことを言うと自虐的なナルシストだと嘲笑されるかもしれませんがウソとは言い切れないと思います。
自殺者が減ったことを喜ばしく伝えるということは人間をただの納税者か国力の一部くらいにしか考えていないことがはっきり表れています。
内閣府の自殺対策室としては成果があがったということでしょうか。少し考えればだれでも想像できると思います。
自殺者の背景にはもっとたくさんの自殺未遂者が存在しているし自殺と明確に判断できる遺書等がなく原因不明の変死扱いもかなりあるはずです。
そうなると本当に自殺者が減っているといえるかも疑わしいです。人間には動物と同じく生存の欲求があります。
でも人間はあまりにも辛く希望がまったく感じられない助けを求められない状況になると自ら死を選択してしまうこともあります。
未来を思考し創造する力をもっているからです。だから、どんな人の命もひとりの例外なく重いものです。命に区別はないのです。