
今年の夏に舞台「父と暮らせば」を観劇しました。あれから半年くらい経ち今度は映画「母と暮らせば」を観賞しました。
親を失った子の心情も辛いものだが、子を失った親の悲痛さは計り知れない。
井上ひさしが構想した三部作のひとつ長崎を舞台にしたこの作品が形になった。
ファンタジックな演出によってむしろ戦争の空しさが伝わってきた。クリスチャンの母は二人の息子を戦争で失いひとり生活をしている。
葛藤と孤独のなか、神を恨むことなく日々祈りを捧げ静かに生きる姿に当時の日本人の強さを見たような気がした。
このような状況でそれでも生きていかなければならない母にとって亡霊でもなんでもいいから息子に会いたいと願う気持ちはとても自然なものだ。
相変わらず明るくおしゃべりな息子の様子が余計にさみしさを誘う。母が言う「戦争は地震や水害などの天災とは違うのだ」
この一言のセリフに、作品のメッセージが集約されている。
だまって国策に従ってきた従順な国民が敗戦を経験して気付いた事実。繰り返すことは許されない。

戦後の日本を描いた物語。食料や物の足りない生活の中日本人は軍国主義から一変して平和憲法が発令され混乱している。急激な変化にとまどう人々がコミカルに舞台を駆け回る。
新しい価値観に順応する人。
なじめないまま仕事もせず過ごす人。
新しい世で夢を見ようとする人。
小さな神社を舞台に神主の一家と神社に身を寄せる様々な人々のドタバタ劇に悪役は基本的にいない。
観劇前は公演タイトルから民主主義を讃美する作品なのかと想像していたがそんな次元の作品ではなかった。予想を大きく裏切られ大満足である。
行き過ぎた民主主義的な行動も古い価値観から抜け出せないでいる姿もどちらも滑稽に描かれている。
与えられる価値を受け入れるだけではなく自分で考えられる脳みそを自覚することが今の日本人に突きつけられている重要課題だ。
20年の歳月を経た作品とは思えないみずみずしい作品である。民主主義がどれほど素晴らしかろうと当たり前のように受け止めるだけでは足りないと思う。
いつかまた価値観を一変させられるような事態になった時、とまどいながらも流されることになりかねない。
芝居の最後の場面。智恵足らずの神社の養子千代吉が突きつけられた台詞『野心をもちなさい』野心っていったい何だろう。
印象的な台詞から何を思えばいいのか妙に気になる言葉を受けて、ぼーっとせずにこれからゆっくり自問したいと思う。
劇団東京ボードヴィルショー
2015年12月6日
於 京都府立芸術文化会館

久しぶりの映画観賞はホラーです。私を心底怖がらせる映画にいつかは出会いたいといつも思っています。
ホラー映画は難しいなあと思います。全体的に大ざっぱで粗い印象でした。恐怖を感じることができなかったです。
劇場霊というだけあって劇中劇が登場します。この劇中劇がかなりチープなものでした。
エリザベートという女性が老いることを恐れていて若い女性を羨んで殺してその生き血を浴びる美容法を行っているという狂気じみた女性のお話しが描かれています。
衣装などの雰囲気から見てもオーストリアの王妃エリザベートを思い浮かべてしまいます。
彼女は確かに自分の美しさに執着がありミルク風呂に入ったり体操器具を使ったりしていましたが生き血は吸っていないと思う。
確かにオーストリアのエリザベート皇后だとは言ってはいないのですが安直で中途半端で劇中のこととはいえ劇としての質が低いです。
舞台のゲネプロ以前のお稽古もいつも舞台上でやっているのも普通はおかしい。
基本稽古場でお稽古して本番間近にならないと実際の舞台上で練習などなかなかできないものです。
演劇に携わる専門家が集まっているのにこんな中途半端さに目を向けない理由は何なのでしょう。気になりました。
映画の演出上の都合というのがあると思いますが、行きすぎると中身に集中できなくなってしまいます。
クライマックスは人形にのり移った幽霊が暴れて人が次々と死んでいくのですが人形は置いてあるだけの時の方が怖さがありました。
激しく暴れると笑えてしまって・・・だめでしたね。
人形もきれいな顔をしているのですがチープな感じが否めないです。半分顔の皮膚が剥がれおちた顔も流れる血もさほど気持ち悪くも怖くもない。
ホラーに欠かせないと私が思うのはそこまで生きている人間を殺すほどの幽霊のもっている動機についてです。
その霊がかつてどんな辛酸をなめたのかこれをいちばん重要視しています。残念なことにこの動機の部分もものすごく説得力に欠けるものでした。
そこまで若さに執着する理由というのが伝わってこなかったです。こうなると、もうただ性質の悪いだけの霊になってしまう。そういう霊もいるかもしれません。
でもやっぱり生きている人間に見せるために作られる映画だとしたら肝心なところに詰めの甘さがあると救いようがないと思う。
いくら立派な建物でも耐震性がないとダメなのと同じ気がします。土台が大事なのです。特にホラーは。
ただの殺人鬼を見たいだけではないのです。霊が何故このような運命をたどってしまったのかという切なさがどうしても必要です。
幽霊に感情移入したい。それが全然成立していなかった。
作品としては理不尽極まりない殺人鬼もいていいけれど、この映画はそんな路線のものでもないようですし、とても残念でした。
ホラーは本当に難しいし奥が深いです。良いホラーは究極の悲劇なのです。

蟹工船は何度も小説を読んだし他劇団の芝居を観たこともある。だが改めて観劇してみて改めて楽しい作品だと思った。「蟹工船」はやはり面白い。
原作を書いた小林多喜二は五感にするどく訴えるような強烈な比喩表現を多用しこの行過ぎた過酷な労働を生々しく伝えているがこの舞台作品はそれをふんだんに盛り込んである。
まず舞台装置がいい。糞壺(くそつぼ)と呼ばれる蟹工船内の漁夫、雑夫の居室が見事に再現されている。多喜二が見たら絶賛ものだろう。
あまりに汚い空間は視覚をとおして臭ってくるかのようだ。糞壺や漁夫が汚いほど蟹工船は際立つ。また船内は糞壺であっても管理者の船室であっても絶えず揺れている。
常に同じように揺れ動く様を観ていると人間は一見搾取する側される側に分類されているかのように見えても大いなる自然(神)の前には誰もが完全に等しく物理的法則を受けながら存在していることを感じた。
また多喜二が描いた集団は舞台ではいたるところで同時に複数のグループによって台詞が交わされる。どこを観るのかを観客は自由に選ぶことができる。
隅っこで一人坐り込む人物に目をやりながら、耳は別の集団の会話に集中してみたりカスタムしながら楽しめる。舞台そのものが巨大な船だから舞台の上で海の揺れを表現するのは主に舞台奥であがる水しぶきと舞台上の役者達の体の動きだ。
集団芝居が多くを占めるこの作品は思い思いの態勢でいる漁夫達が常に同じタイミングで体を揺らし海が大荒れの時は一斉に船を転がる様は観ていて面白い。
役者の過酷さと蟹工船の労働の過酷さが重なり合って素晴らしいリアリティを生みだしている気がした。そして前評判で聞いていた圧巻のソーラン節である。ソーラン節は労働者の団結を象徴している。立ちあがった彼らの応援歌だ。
じわじわと命を奪われるような労働を強いられていただけの彼らが冷静に考え始めそして団結し交渉へと向かう。人はどんな過酷な状況にあっても希望があれば生き生きと生きられる。
彼らが目を輝かせて歌うソーラン節は魂に訴えかける。かっこいいシーンだ。みんながよりよくなることを願う行動が革命なら革命は楽しくあっていいのだと思う。
一人でやれば見せしめに殺されるだけだが一致団結のストライキはそれなりの効力をもつ。だから横の分断は愚かなのだ。
蟹工船を描くことで搾取の構図を暴いて見せた多喜二が今なお作品をとおして訴え続けているその功績を改めて思った。
東京芸術座
2015年10月13日
於 京都府立文化芸術会館

日本の終戦後を描いた作品。舞台は伝統的な民家の居間と土間で展開していく。
昭和20年代の父親はああいう風に居間の中央が指定席になっていていつも恐い顔をして…イメージ通りのお父さん像に時代を感じます。
価値観がひっくり返った戦後、それぞれの思いを抱きながらも懸命に生活する人々の姿があった。
団塊ジュニア世代の私には子どもができないため離縁とか、次男が戦死したから次男の嫁を三男の嫁にしたらどうかとか、見ているだけで気持ち悪くなってしまう。
劇中の台詞通り人間は馬じゃありません。
人権はどこに???よく考えたら敗戦間もないので憲法施行前かと納得。
当時の女性はこんな世の中で疑問すら持たず生きていたのかと70年の時の流れを感じた。
改めて日本国憲法の重みと第13条の素晴らしさを思う。
「日本国憲法第13条」
すべての国民は、
個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する
国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、
立法その他の国政の上で、
最大の尊重を必要とする。
家事や仕事が忙しくても選挙権は必ず行使したいものだと思う。
衣食住に困ってる間は居候したり集まってくるのに新たな仕事や可能性を見つけるとさっさと東京に移っていく目先の欲望に支配される男たち。
それに対して家事や農作業を淡々とこなしいつも自然を敬い調和しながら生きている女たち。
学問などなくてもどこか賢さと強さと落ち着きを感じる。長い間抑圧されてきた女性への申し訳なさなのかどうかわかりませんがこの作品は女性の方がちょっと素敵に描かれています。
ラストシーン。男たちが去ったあと女3人が声高らかに笑う屈託のないその表情と声に、戦後の目覚ましい復興をとげた日本人の明るい未来につながるエネルギーを感じさせられた。
劇団俳優座
2015年9月6日
於 呉竹文化センター