
神戸市内のホテルの打合せを終え、急いで映画館へ。5分前に到着。残り1席のところに滑り込み何とか観賞することができました。
冒頭、恐竜の足の爪のアップが映し出されたと思いきやそれはただの小鳥の足。恐竜の子孫は現在の鳥類ということですね!憎い始まり方です。
クライマックスにかけていかに恐竜が暴れまくるかということがお決まりのパニック映画ですのでいかにしてそこに至るのかそのストーリー性に注目して見ていました。
巨大な恐竜テーマパークでは遺伝子組み換え恐竜インドミナス・レックスが飼育されていました。もう恐竜ちゃうやん。
いかにも現実に企業がやりそうな偽装ではありませんか。そして期待通りに逃亡(^.^)人間はただのエサです。
いろんな遺伝子が組み込まれているので賢いです。超凶暴です。自然を冒涜したらいけないことを知らしめてくれる怪物です。
それからティラノサウルスと共に大活躍のヴェロキラプトルはやっぱり可愛い。口元がとくに可愛いのです。
1頭ずつ名前が付いていますしちょっとヒューマニズムを感じさせるところが微妙に成立しています。
小型肉食恐竜の魅力を想像によってほんのちょっぴりだけ、人間に心を開いているかのように愛らしく表現されていてこの映画の主役はあくまでも恐竜なんだと気づきました。
そして、さりげなく登場していた大好きな草食恐竜アンキロサウルスの群れ。たまらなくキュートでした。
「静」と「動」「緊張」と「緩和」疲れさせず、飽きさせずのバランスがとてもよく計算されています。
恐竜がどんなに好きでも「恐竜」と「人間」という共存してこなかった種族の夢の共演はフィクションの中だけで満足していたいものです。
近い将来科学技術が進歩してもジュラシックワールドは現実にはいらない。超えてはならない一線がある。
きっと先回りして伝えてくれているんだ。恐竜は無差別に人を襲っているのに何故か欲深い人ほど食われます。不条理でないのがいいですね。
チャンスがあれば後もう1回見に行きたいと思います。

原爆投下から3年経った広島を舞台にした父と娘の会話劇。軽妙な親子のやりとりだが父は既に原爆で死んでいる。
ここには戦争によってもたらされるあらゆる闇が表現されている。
命と財産、生活のための物資を奪うだけではない。将来にわたって残り続ける健康被害への恐れや子孫への影響の不安。
さらに究極の暗闇は人が自分が生きて存在することそのものを自ら否定してしまう心を生みだしてしまうことだ。
芝居の中では「生き残って申し訳ない病」と表現されていた。
生命生き生きと生きることもできず死ぬこともできず、亡くなった友を想い、父を見捨てて逃げた自分を責め続ける娘の傷は消えることはない。
「戦争」という一瞬の「罪」によって生まれた「罰」が永遠に人を苦しめる。井上ひさしという作家は本当にすごい作品を残してくれた。
この父と娘のような地獄を味わった人々がどれほどたくさんいた事だろう。そして今なお苦しんでいる人がいることを知らなければならない。
父親の霊は自分自身の未練ゆえに娘の元に現れてきたのではない。一切の幸せを拒否しながら生きている娘の心の重荷が父の姿となって現れたのだ。
そして娘に「幸せになるのだよ」っていつも近くでメッセージを送り続けているのです。
そして私たちには「絶対繰り返さないでね」って今もきっと猛烈に叫んでいるのです。
こまつ座
2015年7月25日
於 東部文化会館

私のアナウンスの先生と、私が昔お世話になった役者さんがお知り合いだったことが発覚しました。関西の演劇界はとても狭いものでいつもどこかで誰かとつながっていることがよく判明します。
そして先生と一緒にその役者さんの公演を観劇しました。
当時から強くてカッコいい女性のイメージでしたがその持ち味は今もそのまま。舞台で抜群の存在感を放っておられました。嬉しい再会に感謝です。
物語はひとりの男の死をめぐるサスペンス。男の周辺の八人の女たちが「犯人はこの中にいる」と互いを信じられなくなっていく。
最近たまたま翻訳劇にお目にかかる機会が多く、その独特のもって回ったような台詞のやりとりを自然に聴くことができるようになってきました。
こういう物語は犯人推理を楽しむのが大道かもしれませんが、あまりそこらへんには興味がわかず人間のエゴイズムが恥ずかしげもなくエスカレートしていく様を淡々と見ていました。
人間はしょせん一人前のような顔をしていても、一皮むけばみんな獣でそんなにいつも立派にしていられる訳じゃない。
疑いをかけられた時、たとえ自分が殺していなくても、人にはそれぞれやましい隠し事があったりして、そこを突かれるとつい平常心を失い逆上してしまう。
人は本当のことで責められるとつい冷静ではいられなくなる。誰しも自分は正しいと思いながら生きているのだから当然です。
何かちまちましているなぁ。非常に嫌だけれど解らなくはない。こういう哀しい一面を誰しも隠し持っているのかもしれない。
最後の最後まで何も救いのない舞台もなかなかいい。舞台上に自分の体内の毒も一緒に吐き出し置いてきたように清々しい気分で会場を後にした。
大阪放送劇団
2015年7月10日
於 A&Hホール

仲間のお芝居を見に行きました。感情移入して没頭するというよりは夢を見ているような感じでした。
無国籍風ではあるけれど日本の近未来を描いているようにも見える。
環境の変化によって雨が少なく貴重な水。戦争で多くの人々が死んでいるという日常がラジオから伝わる。
「平和」という名の店に集う人間たちは誰も幸薄く、あきらめ感、無力感、脱力感、命をつなぐ不安感、孤独感、虚無感、半ば現実逃避、浮世離れした期待感。
生き生きとした何かを見いだすことを忘れてしまったかのように見える人々がそれでも生きている。苦しい苦しいと言いながらそれでも生きていた。
今にも枯れそうな人間達。枯れた植物でも水をやると復活する可能性がある。人間だってそうだ。
衝突しても狂ってもいいじゃないか。あきらめないで出来ることを考えよう。
「思考」することまでも枯らせてしまったらもうこの世界、本当に終わりではないだろうか。白紙の絵本に何を見いだし誰に何を読み聞かせるのか。それが問題だ。
MAYASHI(林)
2015年7月4日
TORII HALL

バカという小石が投げ込まれ、波紋が広がる舞台と笑いで振動する観客席。ダブルの波にゆられるひととき。
ここに登場するフランソワとはこんなバカだ。
身体の具合の悪い時に空気を読んてくれないバカ。
マニアックな趣味の話を長々と聞かせたがるバカ。
人の悲しいプライバシーについ踏み込んでしまうバカ。
「出来ます、大丈夫です」と言いながらミスを連発するバカ。
余計な親切で火に油を注いでしまうバカ。
大変な時にサッカーでひとり熱狂するバカ。
でもとにかく一生懸命で人の生命や尊厳を決して脅かしたりしないバカ。
実際となりにいたらたまらない人物。謙虚な風でありながらどこか図々しくそれでも憎めない。
うらやましいほどの純粋なるバカ。
社会の潤滑油のようなバカ。
それから繊細で傷つきやすいバカ。
深い傷と孤独を知っているバカ。
でも最後の最後やるときはやるバカ。
こういうバカはみんなで大事にしたい。愛すべきバカ。
冒頭とラストで流れるオッフェンバックの曲「天国と地獄」がバカによく合います。私は今後、この曲を聞くたびにフランソワを演じている加藤健一さんを思い出すことになるでしょう。

バカのカベ~フランス風~
加藤健一事務所
2015年6月27日
於 呉竹文化センター