ナレーションの先生にご紹介いただき初観劇しました。噺劇(はなしげき)というのは耳慣れない言葉です。
それは、落語の登場人物をお芝居で演じるという興味深い手法の劇のことです。
落語のように小道具も扇子と手ぬぐいだけ。舞台セットも装置も何もない畳の上で繰り広げられる時代劇風コメディは、見る者の想像力で一層楽しめる上質なエンターテイメントでした。
こんなジャンルがあったとは今まで知りませんでした。この演目、落語でも聴いてみたい。
落語/噺劇「三味線栗毛」「小間物屋政談」
噺劇一座
2015年6月21日
於 道頓堀ZAZA HOUSE
見た目じゃない!真理を見つめ続けた聖女ジャンヌ・ダルク

人間は視覚に多くを頼っているので、見た目から入る情報に左右されやすい。身なりや、顔つき、表情、しぐさ、話し方などから瞬時に第一印象を抱かれやすい。
つまり、教養のなさそうな話し方の人、清潔感に欠けだらしない感じの人、目線の定まらない人などは軽んじられやすい。信用されにくい。
でも「果たして本当に信用に値しないのか」ジャンヌ・ダルクを見てそんなことを思った。
読み書きできない、ぼろぼろの服を着た農民の娘は神の声に従い、そして軍服を身にまとい危機的状況のフランスを救いヒロインとなる。
神の声の原点は彼女自身の深い信仰心にちがいない。ひとたび真理に触れてしまった人間は、もう愚鈍な群れの中に戻ることは絶対にできないのだ。
「神の声を聞く」などという高次の体験はひとまず置いておくとして、自分はこのまま利己的で愚かな集団にとどまり、聖なる者に死刑を言い渡す側になりたいのか、なりたくないのか。
まずは、そこから思考できれば、たとえ今は夢のように思える世界がいつか現実になるかもしれない。フランスを救ったこの聖人のように。
そして舞台は裁判へ。ジャンヌが自分を葬ろうとする者たちをも赦し、反省の弁を述べさせられるとき。彼女の霊眼はただ天使の姿をとらえていた。もっとも印象的で崇高なシーンに涙した。
たえず彼女が従った内なる声=神の啓示という真理に貫かれた信念。いつも視線の先には聖カトリーヌ聖マルグリット、大天使ミカエルの姿があった。
彼女が自分の肉体を焼かれても示したかったものとは。
心の眼をひらき
真実を自分で求めること
そしてそれを発する勇気
それから、人の見た目を超えて出ているものを見極める力をもちたい。自分の浅はかさで身の回りの宝を見逃しているのかもしれない。600年前のひとりの少女がそんなことを教えてくれた気がする。
ジャンヌ・ダルク―ジャンヌと炎
いま、ひとりの少女が声をあげた―
東京演劇集団風
2015年6月9日
於 京都府立文化芸術会館
人々の覚醒を促す圧巻の舞台作品「請願(せいがん)」

BGMもない、効果音もない、派手な動きもない対話オンリーのふたり芝居。そしてその対話は最初から最後までほぼ夫婦喧嘩で構成されている。
誰かの家庭をのぞきみしているような趣味の悪さを楽しんでいたが気がつくと絶えまないやりとりを一言も聞きもらすまいと集中する自分がいた。
世の中におそらくたくさんの夫婦喧嘩が存在するだろうがこの夫婦の争いは大きくふたつある。
ひとつは、二人の核兵器に対する立場の違い。もうひとつは、二人の間の様々な信頼関係にまつわるものである。このふたつの問題がくるくると入れ替わるテンポのよさに自然に引き込まれる。
地球規模の核の問題と家庭内の嫉妬やなんかが二人の間では同じくらいの規模でやり取りされているのがおもしろい。二人にとってはどちらも譲れない重要問題である。
家庭内の方でいえば、何十年と連れ添いながら秘め事を持ち続け互いに嫉妬し表面的には支え合って共に歩んでいるということが正直きつかった。愛はあるともいえるし、ないともいえる。
夫婦って夫婦なのにここまで至らないと言えないものなのか。最愛のパートナーとはたとえ政治的立場が違っていたとしてもそれ以外の個人的な寂しさや葛藤や可愛い嫉妬くらい何でもさらけ出して話せる関係をもちたいと願う私は甘いのだろうか。
近しい距離の人間関係の難しさを見せられたような気がした。夫婦の関係というものに願わくはもう少し夢を見させてもらいたかった。
そして核の方はといえばガチガチの退役軍人の夫と核反対の請願書に署名した妻。
「美しい地球を未来へ残したい」妻のこの願いが単なる美しい理想ではなく重く心に訴えてくるのは自分ののこりわずかな命をはっきり告げられ、全てを受け入れた者の魂のありのままの叫びだからだ。
そしてこれが今見た者に強烈に訴えかけてくるのは核の脅威が現実に吹き荒れているからに他ならない。
妻は最後までこれまでと変わらない夫婦生活をおくりたい。そして一度だけ反核のスピーチに立ちたいと訴える。
できるなら自分の命がここまで限定された状態になる前に気がつく方がいい。そしてそれは正に今である。今気がついたならやれることはもっとたくさんある。もう瀬戸際まできている。
自分の代で責任の取りようのない長期間汚染物を出す核を正当化できる理由など何一つない。先に目覚めた人間はいち早く隣で眠る兄弟を叩き起こす義務がある。そして目覚めた人はまた誰かを叩き起こす。
覚醒のリレーを一刻も早く進めるには一人目に起こす人間を多く増やすことだ。この芝居を見た人間はいち早く立ちあがる義務がある。あなたも私も。
夫婦関係の甘い夢と期待を打ち砕かれた私だがこの芝居の舞台芸術のとしての価値は高い。総合芸術でありながらそのほとんどを役者という人間のもつエネルギーに依存しきっている点がすばらしい。
俳優の力量あってはじめて成り立つ作品である。そして社会的、地球的という意味においても大きな意義をもっている。強烈なメッセージを心の深いところに送りこむエネルギーをもっている。
このエネルギーを核に取りつかれた哀れな欲望を上回るエネルギーに育てていこう。このような作品が更に広く上演されることを願っている。
水谷貞雄 田畑ゆり
2015年5月8日
於 そうぞう館
社会問題が浮き彫りになる白熱の舞台!劇団昴「親の顔が見たい」
京都でお芝居を観てきました。学校のいじめ自殺問題をいじめに関わったとみられる子どもの親たちを中心にあからさまに描き出した作品。
胸が悪くなるほどのリアリズム。保身だらけのエゴイスティックな台詞の応酬は時に笑いを誘う。登場する親たちは皆ごくごく一般的な何処にでもいそうなそれなりに善良で子ども思いの人物である。
しかしある日、一人の生徒の自殺により学校の一室に集められるところから物語は始まる。疑い、嘆き、証拠隠滅…狭い部屋は醜い言葉で汚れていく。次々に証拠が明らかにされて美しい親の幻想は粉々に砕かれる。
この物語は利己的な心を少なくして真実を有りのままに見ることそして真の愛情とはその者の本当の成長を願うことであると伝えてくれる。
とはいえ人間の弱さというものを握りしめていては実際にそれを実践することは難しい。それからいじめという現象が一体どこから湧いてくるのかということを考えたとき人間が集団を形成すると個人個人には見当たらなかったと思われるような残虐性が時として生まれてしまう。
個人の奥深くにある罪悪感や劣等感や愛の欠乏感が集団になったときに吹き出して大きな塊になって特定の個人を攻撃してしまう。
心静かに自分の内面と対峙する時間が持てないほど忙しくしていないといられない何かに追われているような人が本当に多い。
時々でもいい。自分とだけ居る時間を取り戻してみたらどうだろうか。本来心身ともに健全な状態からは残虐性は生まれにくいものだと思う。逆に集団になったときに一人では発揮しえないような美しいものを生み出すこともまた人間にはできるはず。
美しいものとはこの地上に共に生きる同胞のためになすべきことを思い出すことである。ラストシーンに向かうにつれ本当の心を取り戻そうと変化を見せる親も現れ始めた。
真実に対して心を開いていこうとする人が増えればいじめや差別のない世の中の実現は可能だというメッセージとも受け取れた。
劇団昴
2015年4月13日
於 呉竹文化ホール