強い内向性を克服すべく、あれこれとやってきましたがMCやらサービス業やらの職務はできても、最終的に自分を阻んでいるものがあります。
その壁により、プライベートの人間関係がドライになったり、仕事であと一歩の押しが足りなくなったりしてしまいます。
最後に自分を阻む壁とは「素直さ」の壁です。
孤独を好み、何でも一人で完結させたかる人は自立心旺盛な反面、素直さに欠けています。
素直に打ち明けるべきときに、秘密主義でいると親密な関係が結べません。
知らないうちに周囲が助言しにくい雰囲気が出来てしまうと、いろんな面で損をします。
素直さの壁は内側からしか崩すことができません。自分の壁は自分で壊すのです。
一番奥にまだ閉じた心が残っているなら、外側からどんなに優しい人が見守ってくれていても気づくことができません。
見えない強固な壁。最後の壁を自分で崩したら世界が変わってきます。
はじめに変わるのは身体です。
あらゆる不定愁訴が軽減されます。パニック症のような症状が楽になります。
そして身体が変わると気持ちが変わります。物事が気楽に楽しめるようになります。そして結果、人間関係や環境が変わっていくのを実感できます。
内気や、内向性の克服には時間がかかります。忍耐が必要な長い道ととらえるとうんざりするかもしれません。
でも、克服すべき嫌な問題という捉え方を手放し、この現状にはどんな意味があるのだろうと自分に問いかけてみてください。
答えを出す必要はありません。でも「なぜだろう」「どうして自分はこのような状態なのか」と問い続けてください。
答えを勝手に決めつけることが自分を苦しめる原因になっていることに気が付いてください。
そして静かに現状を認めながら、それでも変えたいと思う自分を変えたり、自分の変化を自分に許してあげればいいのです。
苦しんだり、心配したりしてきたエネルギーをすべて、やりたいことへと向けてみましょう。
自分の人生を自分に呼び戻し、自分が自分であることの喜びを体感できるまで自由にふるまってください。
自分が素直でないことに気が付いた時、それは最大のチャンスです。
人前で話すという仕事は何かと評価されたりいろいろ言われたりします。仕事以外でもちょっとした案内などをいきなり頼まれたりすることもあります。
何となく簡単にしゃべれる人間なんだと勝手に思われているのです。
断るとこちらがひどい人間みたいな反応をされることもあります。感性も生活環境も違う人がたくさん集まる中ですべての人から好印象を得ようとしても無理な話です。ただどんな反応を見たとしてもそれを否定ととらえないことが重要です。要は自分の受け取り方が世界のすべてということです。
そもそも否定という概念が存在していないという世界で自分が生きていれば他の人がどのような価値観をにぎりしめていたとしても100%関係ありません。
否定という概念がはじめから無いとしたらいろいろな人の反応や発言などは私が自己改革するための有用な材料になるだけです。
有効に使うもよし、捨ててしまうもよし。ただひとり広い草原で穏やかな心境でそのままの自分の存在がいとおしくなるとでもいいましょうか。自分と相手の境目があまりなくなってしまうような感じがしてきます。
なんでもありで、何もない。そんな境地になっています。スケジュールが詰まっているように見えてもストレスに悩むこともなくなるし先のことを考えて不安になることもなくなります。
私もあなたも自由だということが自明のこととしてわかるようになります。なんでも好きにできるようになります。なんでも好きに考えられるって素晴らしいことだと思います。
自分の選択肢を極度に狭める自由も解き放つ自由も全員に平等に与えられています。

心がしんどくなってしまう事って誰にでもあると思います。私もよくあります。
誰かに打ち明けると楽になることがあります。ただし、そんな都合の良い相手がいつも近くにいるとは限らないし、いても相手にそんな余裕があるタイミングかどうかわかりません。
じゃあ自分で自分をケアするにはどうしたらいいか。
自分の心がしんどい時って大概自分が自分にいう言葉が恐怖や不安を煽るような言葉でいっぱいになっているものです。「このままで大丈夫なのか私」「どうしようもない私」「生きて帰れるのか私」「誰にも相手にされない私」「憑いてる私」
だからまずはこれを優しい言葉に変えるのです。こんな風に置き換えてみましょう。「うまくいきそうだ私」「いつも何とかなる私」「なんてラッキーな私」「守られている私」「ツイてる私」
置き換えはタダなんです!いつもひっきりなしに自分の頭の中を駆け巡っている何となしの思考とでもいうような言葉の数々。これを変えるにはとても意識をしなければ変わりません。
それくらいいつも流されっぱなして言葉を垂れ流しているものなのです。
でも置き換えはタダです。人に向かって発する言葉は注意もするけれど、自分の頭の中を流れる言葉は無防備だし放置状態になりがちです。
自分への言葉を優しくすると不思議なほど人への気持ちも優しくなれます。
心がやさぐれてしまいそうになったら自分で早めのケアをしたいものです。
芸術というのは愛で、精神的な高揚のひとつの表れ方です。今自分が現実に置かれているステージや舞台装置で共演者と観客と共に修行者、奉仕者という名の表現者が存在します。
上から照明に照らされるようにそれぞれの者に何かが太陽に包まれるように照らされています。それが最初は弱い光にしか感じられなくても光に対して素直でいればわかってきます。
光は完全に平等にあたっている。お互いに奪い合うこともなく羨ましがることもなくちゃんとステージは全員分すでに用意があるのだとわかります。
自分ひとりが気付くだけでこの世にしかありえないすばらしいエンターテイメントをいくつも堪能することができます。
他の人のステージも自分のステージも最高なのだとわかり始めます。わかっているとたまにステージ上が真っ暗に暗転することがあっても、それが舞台転換なのか次の場面のための演出のひとつなのかとワクワクすることもできます。
パニックにならずに楽しみで満たされるでしょう。愛やら平和やら幸せやらは小道具みたいなものですでにステージの袖に置かれています。暗闇でも紛失しないように蓄光テープが貼られています。
よく見れば必ずあります。必ず見つけられます。壊れやすい小道具は予備もあるし修理の用意もあります。
自分が不器用なら助けてくれる仲間もいます。ステージ同様、小道具も無限にあるもの。無限にあるものをわざわざ奪い合う必要はないのです。
気付いてほしいと待っているかもしれません。そしてそれらを総合して何が創れるのか。自由な創造は楽しいものです。
力づくで何かを推し進めたり必死になってアピールしたり作戦を練り込んだりそれも悪くはないけれどそれだけが表現ではないのです。気付くか気付かないか。それだけで一見、見えない舞台装置の裏側にある仕掛けがわかります。
ミスすることもあるだろうからあらかじめ二重三重に安全策をしておこうかと準備できます。シナリオは最後まで見なければわからないものだということも想像できます。稽古の段階とそれを経て迎える本番のステージがあります。
今が稽古なのか本番なのかわかっていないと当然良いものは作れないでしょう。稽古も本番も休息も大事。心静かに自覚する時間をもつと見えないものが視えるようになります。
見えないところにも心を配れる。非常灯が消えているのも演出上のこと。分かってやっていることは怖くないのです。

新しい仕事に就くとき必死に勉強します。そして現場に出ると思いもよらないことも多くてさらに勉強します。
いつしか様々な経験が身体にしみ込んで周りの風景がよく見えるようになり落ち着いて仕事そのものを楽しいと感じるようになります。
でも本当の勉強はここから。そのままでもそれなりに評価もいただけたり頼りにされたり、感謝されたり充実感もあるにはありますからここで現状維持になりやすいのが人間です。
ここまで来てさらになりふり構わず泥んこになるのか、ならないのか決めるのは自分です。
さらに何かを求めるにはリスクも恐怖もあります。その恐怖を少し和らげてくれるのが「勉強」です。でも知識=成果ではありません。あくまで知識は種のようなものですからそこからの行動のとり方が未来に影響を与えてくれるのです。
「これで安泰」なんてことはそもそもないと思って限られた時間に優先順位をつけて学んでいきたい。そんな思いをもって日々を大切にしていると志の高い互いに有益な仲間や状況が手に入り始めます。
世の中の変化にも翻弄されにくくなります。周りを動かす必要はありません。少しの知識と少しの行動から勇気が生まれます。自分を信じ自分を動かすことです。