
ある方にお借りした本です。人に借りて読む本は普段あまり縁のないジャンルのため目新しくて楽しいものです。
お借りする際『とにかく気持ち悪い本だけど大丈夫?』もうこの一言で期待が高まります。
ファンタジーホラーの短編集です。虚構の世界ですからあまり意味を深追いせずその残虐性を楽しむホンです。
こういうことを書くと変質者っぽいかもしれませんが光を愛するのと同じように闇も楽しみたいのです。
青少年にはあまりお勧めできないですが虚構は虚構と冷静に判断できる人が読むのは問題ないかなと思います。
この手のものに触れることは人間のもつ残虐性とは真逆の神聖な境地もまた存在していることを表しているように思います。
大好きだけどこういうのばっかり読むのはやめておこう(^.^)といいながら「ZOO2」を読みます。
ZOO 1/乙一
集英社文庫

日本の終戦後を描いた作品。舞台は伝統的な民家の居間と土間で展開していく。
昭和20年代の父親はああいう風に居間の中央が指定席になっていていつも恐い顔をして…イメージ通りのお父さん像に時代を感じます。
価値観がひっくり返った戦後、それぞれの思いを抱きながらも懸命に生活する人々の姿があった。
団塊ジュニア世代の私には子どもができないため離縁とか、次男が戦死したから次男の嫁を三男の嫁にしたらどうかとか、見ているだけで気持ち悪くなってしまう。
劇中の台詞通り人間は馬じゃありません。
人権はどこに???よく考えたら敗戦間もないので憲法施行前かと納得。
当時の女性はこんな世の中で疑問すら持たず生きていたのかと70年の時の流れを感じた。
改めて日本国憲法の重みと第13条の素晴らしさを思う。
「日本国憲法第13条」
すべての国民は、
個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する
国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、
立法その他の国政の上で、
最大の尊重を必要とする。
家事や仕事が忙しくても選挙権は必ず行使したいものだと思う。
衣食住に困ってる間は居候したり集まってくるのに新たな仕事や可能性を見つけるとさっさと東京に移っていく目先の欲望に支配される男たち。
それに対して家事や農作業を淡々とこなしいつも自然を敬い調和しながら生きている女たち。
学問などなくてもどこか賢さと強さと落ち着きを感じる。長い間抑圧されてきた女性への申し訳なさなのかどうかわかりませんがこの作品は女性の方がちょっと素敵に描かれています。
ラストシーン。男たちが去ったあと女3人が声高らかに笑う屈託のないその表情と声に、戦後の目覚ましい復興をとげた日本人の明るい未来につながるエネルギーを感じさせられた。
劇団俳優座
2015年9月6日
於 呉竹文化センター

数学者岡潔と批評家小林秀雄の対話。理系の賢人と、文系の賢人のハイレベルな雑談はちょっと難しくもある。
でも学問にとどまらず、文学、絵画、お酒哲学など目まぐるしく広がる。自然に心がひきつけられる。ある分野における天才はこの世界の何を面白がり何を憂いているのか。
普遍性を感じる多くの言葉がある。
世界の知力が低下すると暗黒時代になる。暗黒時代になると、物のほんとうのよさがわからなくなる。
真善美を問題にしようとしてもできないからすぐ実社会と結びつけて考える。それしかできないから、それをするようになる。それが功利主義だと思います。
情緒というのは人本然のものでそれに従っていれば、自分で人類を滅ぼしてしまうような間違いは起こさないのです。現在の状態ではそれをやりかねないのです。
50年も前に掲載された岡潔の言葉。彼が危惧したことが現実になりつつある。
人間の建設/小林秀雄・岡潔
新潮文庫

資本の論理が利益を求めるもっともっともっと・・・・果てしのない欲望はどこまでいけば気がすむのか。
そして国家権力と結びついて武器を作り他国を脅かす前に自国民を不安に陥れている。
細かな取材と徹底したリアリズムを伝える描写。ファシズムへの急速な展開右傾化の急速な流れにストップをかけようとした多喜二。
誰もが平和な生活が送れる世の中に。貧しい人々の権利が認められる世の中に。自由に集い、自由にモノが言える世の中に。生命をかけて戦争を防ごうとした多喜二。
虐げられる者への優しさと真実を見通す確かな眼差しと横暴な権力への痛烈な怒り。戦後70年。
今、改めてまっすぐに読みなおしたい多喜二の作品。単なるイデオロギーのお手頃のアイテムなんかにしてはならない。
素朴でまっすぐでユーモラスで文学を愛し、絵画を愛し音楽を愛し、人を愛したそんな、一人の人間が必死に生きて書きつづった命の結晶。
志半ばで断ち切られた無念を無にしてはならない。多喜二を読もう。そして大胆に行動に出よう。多喜二の作品は平和を願うすべての人への大きな力にきっとなるだろう。
トルストイに学ぶ博愛の精神「光あるうち光の中を歩め」

幼なじみの二人の男の物語。キリスト教の世界に生きるパンフィリウス。俗世間にまみれている商人ユリウス。何度かキリストの世界へ足を踏み入れようとするユリウスだが世間の誘惑に負けて引き返してしまう。
パンフィリウスがユリウスにキリスト教的結婚について語るくだりが印象的。
一人の女性に対するそうしたすべてをうち込んだ絶対的な愛なるものは、その前からすでに存在する万人に対する博愛が侵されない場合にのみ芽生え出ることができるのです。
それ自身美しいものと認められて多くの詩人に謳歌されている愛情――― 一人の女に対する特定の愛情はそれが万人への愛に基づいていないかぎり、愛と呼ばれる権利を持っておりません。
万人に対する博愛がベースになければ本当に一人の人を愛することはできないのですね。
昔々の自分の話で恐縮ですが、ある人に博愛を要求したことがありました。
「世界中の人を愛すると同じ程度に私にも優しくしてくだされば結構です」と言ったところ「僕は神さまじゃないんだ。好きな人に特別優しくしたいと思う気持ちの何がいけないんだ?」と反撃されました。
せめて「難しいけどあなたが望むならやってみるよ」くらいは言ってもらいたかったです。結果は案の定。特別な優しさは数年間の限定でした。
だからはじめにお願いしたんですけどね。でも当時の私のいけなかったところは、自分にも出来もしない高すぎる理想を相手の器も考えず押し付けようとしたことです。
反省しています。それでも今もこの博愛へのあこがれは変わらず持ち続けています。
たとえ実践できなくて落ち込むことがあっても神さまは承知の上ですべての人々に光を注いでくれているのです。
ユリウスのように誘惑に負けてしまう心の弱さを持ちながらもそれでも光の中を歩んでいきたいものです。
ちなみにユリウスはその後ちゃんと目覚めました。めでたしめでたしです。
光りあるうち光の中を歩め/トルストイ
訳 原久一郎
新潮文庫